
こんにちは。安川 大仁です。
前回は、福島で日本酒の新しい酵母を育てる話を書きました。
ひとつの酒蔵で、土地に根づいた味を待つ発酵です。
そんな中で先日、面白い案内が目に留まりました。
韓国の家庭で受け継がれてきたキムチ作りを学ぶ教室が、山形から金沢まで五つの街を巡るという話です。
ひとつの土地で待つ発酵もあれば、人と一緒に街を動いていく発酵もある。
その対比がなんだか面白くて、妙に頭に残りました。
一玉を仕込んで、家へ持ち帰る

料理教室というと、その場で作って味見をしたり、小さな容器に少しだけ分けて持ち帰るイメージがあるかもしれません。
けれどこの教室で仕込むのは、参加者一人につき「白菜一玉分」です。
塩漬けから始めて薬念(ヤンニョム)を合わせ、その場で食べるのではなく、丸ごと家へ持ち帰って熟成を待つ。
私自身、案内を読みながら「一玉」という言葉で手が止まりました。
白菜一玉を抱えて帰るとなると、電車に乗るのも一苦労ですし、台所に置くだけでも結構な存在感があります。
冷蔵庫の棚をあけて、保存容器を整えて、これからの置き場所を作らなければいけない。
けれど、この「持ち帰る重み」にこそ、キムチという発酵食品の面白さがある気がします。
教室で過ごす時間は数時間。けれど、持ち帰ったあとの付き合いのほうが、ずっと長いのです。
漬けたてのシャキシャキした甘みを楽しむ日。乳酸発酵が進んで酸味が乗ってくる日。さらに酸っぱくなったら、鍋やスープに使う日。
完成品を買うのではなく、仕込みの途中で手渡されるからこそ、それぞれの台所で味が育ち、生活の中に静かに馴染んでいくのだと思います。
五日間で、五つの街へ

日程は9月19日から23日までの五日間。
山形、仙台、新潟、松本、金沢を一日ずつ巡るそうです。
大都市に人を集めるのではなく、教える側が街から街へ移動していく形です。
韓国の家庭料理であるキムチは、もともと地域や家庭ごとに「家の味」があります。
お母さんやハルモニ(祖母)から受け継がれてきた作り方が日本へ渡り、今度は東北や信越、北陸の街へと運ばれていく。
土地が変われば、空気の湿り気も違えば、台所の室温も違います。
同じ配合で仕込んでも、山形の家で育つ味と、金沢の台所で熟成する味は、きっと同じにはなりません。
文化を残すというと、一つの場所に大切に保管するようなイメージがあります。
けれど実際には、こうして人の手から手へ渡り、その土地の暮らしに馴染んでいくことで残っていくものもある。
移動するからこそ残る文化があるのだとしたら、面白いなと思うのです。
記憶に残るのは、レシピより、手の動き

今の時代、作り方や分量だけなら、本や動画を見ればいくらでも分かります。
けれど、塩を振った白菜のしんなり具合や、薬念を葉の根元まで塗り広げるときの指先の力加減は、画面越しではなかなか掴めません。
隣の人の手元を見たり、教える人のリズミカルな手の動きを真似してみたりする。
赤い薬念で染まる指先や、白菜の感触。五感を通して体験したことのほうが、文字や数字よりもずっと記憶に残る気がします。
一玉分を自分の手で仕込んで持ち帰ると、次に一人で作るときに思い出すのは、分量の数字というより、あの日の「手の動き」です。
頭で覚えるというより、体が覚えている。
文化が手渡される瞬間って、案外こういう素朴な手の動きの中にあるのだと思います。
おわりに
前回の発酵は、ひとつの土地でじっくり待つ時間でした。
今回の発酵は、五つの街を巡り、それぞれの台所で静かに育っていく時間です。
キムチは、教室を出た時点ではまだ完成していません。
抱えて帰った白菜の重みを感じながら、台所を整え、日々の食卓の傍らで少しずつ味の変化を確かめていく。
その小さな続きまで含めて、発酵という文化なのだと思います。
買うより、仕込む。急ぐより、待つ。
私も次にキムチを手に取るときは、目の前の味だけでなく、葉を一枚ずつめくって薬念を塗り込んだ手元や、台所で静かに発酵を待っていた時間に、少し思いを馳せてみたいです。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。























